ハイジ と まゆみ

酒粕から酵母を起こそうとして一週間になろうとしています。が、無色透明な壜のガラス越しに酒粕の様子を眺めながら発酵しない原因をあれこれ探ります。エサを与えてみたり、蓋を開け空気に触れさせてみたり、置き場所を変えたりとご機嫌伺いに余念がありません。その行動をしているわたしの内側はどうかというと、思い通りに行かないことへの苛立ちと不満と何で?という疑問符で波だっています。酒粕に限らず果物や野菜から酵母を起こしパンが焼き上がるまでにはちょっとした時間がかかります。パンを作る方法は幾通りもありますが、わたしは今回、起こした酵母と全粒粉を練り混ぜたものを数日から一週間さらに育ててからパンにする「中種法」というやり方をするつもりでした。酵母が活き活きと活動する様子やパン種が育って行くのを眺めながら、わたしの楽しみも育っていくはずだったのですが・・・。

今野先生が洗顔洗心塾や講演会などで、「ハイジとまゆみ」のお話をされることがあります。ご著書「運命をひらく小さな習慣」~致知出版にも書かれていますが、笑顔。肯定的なハイという返事。相手の話に頷く。そうアルプスの少女ハイジのように。

そしてまゆみは・・・まつこと。ゆるすこと。みまもること。自分に対しても自分以外の人に対しても。

微生物がもたらす発酵という営みを通して、わたしはしばしば「まゆみ」でない自分と出くわし、やれやれと思うのです。酵母が起きなかった酒粕は、それだけの力がなかっただけなのです。それならばそれに相応しいように扱ってあげれば良いだけのことなのでした。

以前、ある人が、「何で? 」と考えると思考の迷宮に入って先に進めなくなってしまう、そういう時は「何のために」と捉え方を変えるといいよ、と言ってくれたことがありました。そのことを思い出し、その酒粕から酵母を起こそうと躍起になることを手放し、別の酒蔵の、絞りたての酒粕を求めました。今度は酵母の起こし方も変え、ダメで元々の気持ちで取り掛かると、一日足らずで酵母が起きました。中種法へのこだわりも捨て、「ストレート法」という酵母と粉を直接混ぜて作る方法でパンを焼きました。それが写真のパンです。

酵母の起きなかった酒粕は甘酒にしていただきます。思えば、パンになった酒粕はパンには向いているけれど、甘酒には不向きなタイプという偶然も面白いですね。(笑)