匂いと思い出と。

江戸末期に建てられた古い農家を訪ねたある日のこと。敷居を跨いだ途端、煤の匂いが鼻腔いっぱいに広がります。囲炉裏のある板の間は柱も天井の梁も煤で炭のように黒く、磨かれた床板は昼明かりを跳ね返し、黒光りしています。
その匂いは、すぐさまわたしを幼年時代に連れて行きました。大叔母の家で過ごしたかけがえのない時間へと。
大叔母の家も茅葺きの古い農家で、薄暗く、煮炊きするのも風呂を沸かすのも薪でした。
朝、目を覚まし、わたしが台所に行くと割烹着に下駄姿の大叔母は、ひびの切れた赤い顔に笑みをぱっと咲かせ、おはようと。それはわたしが目を覚ました、ただそれだけのことがとても嬉しいといった感じの笑顔でした。
そして大きな竃で炊いたつやつやのご飯に、庭で飼っている鶏の産みたての卵をかけた朝ご飯を作ってくれました。ほかには何もない、けれど愛情たっぷりの朝ごはん。
古い農家に染み込んだ煤の匂いは、わたしのなかで眠っていた大叔母の愛情と思い出を鮮明に立ち上がらせてくれたのでした。